シモク、半身、写し目、合気正眼、中心軸、丹田、添え手(柔らかい手)、8つの体捌き

 

母体武道 合気道無元塾の形はすべて一貫性のある概念を内包する。

 

①志向性を持たないということ。つまり、360度に開いているということ。  

②弛緩集中すること。

 

→だから無対立になれる。

 

そのために、下記の身体遣いを徹底するように心がける。

 

シモク:シモクとは撞木からきた言葉、概念のこと。足をTの字にして前の足を親指分外踏みする。足巾せまく腰の進みで、球が転がるように歩く。複雑な関節の動きの組み合わせで内部操作がしやすく、思わざるが出やすくなる。3軸の回りがバランスよく発動できる。つまり球転の動きを起こしやすい。

 

半身:シモクを踏んだ状態で自然にたった時の形が半身です。決して向身にはならない。シモクを踏んでも向身になるのであれば緊張している証拠である。一点に集中すると向身になりがちになる。体が向身でも気持ちが半身のイメージを持つようにする。自然と柔らかい半身になる。

 

写し目:観の目、遠山の目付、様々呼び方はありますが、全体を平面に見るようにする。人間の情報のインプットは目からの情報が圧倒的に多いがその情報の割合を少なくする方法である。

 

中心軸:身体の中心線と地球の中心と繋がった重力の重心線をあわせた線。それを感じるようにする。必然的に上虚下実となる。

 

丹田:中心軸上の臍下の位置。仙骨、股関節との関連性を吟味する。充実はさせても固くはしない。

 

①~⑤を全部合わせて添え手で剣をもった形を合気正眼という。

 

8つの体捌き:合気正眼から始まり合気正眼で終わる。

     

球の理論(1)

 

1、なぜ球なのか?----- 究極の抽象度

2、球を3軸で考える。------ 球を思考する。

3、球をどうイメージするか?

  →3軸‐球を3軸で考えるという思考

  →流転‐球転無窮のこと。常に動いているということ。

   止まっているように見えて動いている。動中静、静中動。

  →円進‐踏み込まないこと。

 

稽古中の技だけでなく、普段の全ての行動に、この考え方を組み入れていく。

 

 

球の理論(2)

 

・2軸以上が交差すると球の動きが発現する。

 

・体の全関節が回ることを想定したとき、それは既に球の動きである。

 

・動きとしての球とイメージとしての球がある。

 

・縦軸、横軸の大きさが違えば球にはならない。

 

・球をイメージした後のストーリーをイメージする、、、円進、流転、、

 

・球のイメージの仕方、、、大きさ、質、状態、→中心点、、、、無。

 

・球の中心とは、、場所、大きさ

 

・球の動きのイメージ、、、止まっているようで動いている(動と静)

 

・球、円、螺旋、トーラス、フラワーオブライフ、ヴェシカパイシス、、間合い

 

・究極の抽象的な形のひとつ。(あまり考えられない、、、思考しずらい)

 

・球のイメージと現実(動き)の同一性と乖離。

 

・球のイメージの日常と非日常

 

・球のイメージの意識(思考)と無意識(無思考)

 

・球のイメージと感情

 

・回り打ち、断剣、天の打ち、拍子打ち、回る間合い、、

 

・イメージをしつくして、忘れる。境地にいたる

 

 

拍子という言葉

     

 ・拍子打ち(想いなき打ち、境地打ち、ハズミの打ち)

 

 ・合気拍子 

 

 ・拍子--相手との衝突(抵抗)のたびに区切りをつけない、自分の拍子でやる。

 

 ・無拍子--区切りを作らず、天上天下唯我独尊、自己滅却、自己第一義、一筆書き。

     

 

 自分の領分の中での行動をする。そうでなければ自らが崩れてしまう。

 

今がチャンスと思って攻撃しても、次の瞬間流動している。


 

浮き、游、開き、抜け、返し

 

浮き、游、開き、抜け、返しは“球理”を前提とした言葉である。

 

游(ゆう)

 

    物事に対しての心の余裕のことを言う。

 

    執れ(我欲、分別、判断、自己意識)で打たない。

 

    自分の領分内で行動する。(自分の領分(能力)を知る。)

 

    集中せずして集中し、先端が360度を意識する。

 

    チャンスをチャンスと思わないようにする。

 

    触れるまでが游、触覚によって知が働けば游がなくなる。

 

    游があれば先とか後を考える必要はなくなる。

 

    游があるから、腰回りが生まれる。

 

 

浮(ふ)

 

森羅万象の中に、すべての抵抗の中に我(中心)があり、毅然として存在している

境地のこと。

 

     周囲360度のあらゆる方向に対して、その対立に融和して逆らわない安定した

境地のことをいう。

 

開き

 

   瞬間的に游なり浮が現れた状態。

 

抜け、返し

 

  游、浮でつくる形、→技

 

 

〇身体的には、、

 

思わざる芯の移動

 その場で、シモクで腰を落とすと、例えば右半身であった場合、

  足の踏みようと膝の構造により、芯は膝を屈すると斜め右前方へ移動する。

 相対の円和の中でこの思わざるの球理が生まれてくる。結果、相手は目標を見失って乱れ崩れることになる。思わざるに現れている球理のハタラキにシモクの重要性がある。

 

〇“浮き”と“游”の概念は、暗喩(メタファー)としての相互補完的な役割をする。

 

  浮き、、静も動も、立っていても座っていても、上下左右前後周囲立体360度あらゆる方向に対して、その対立を融和して逆らわないという境地のこと。

 

  游、、心の余裕、無対立、自信、自己肯定感。

 

 

 

〇開きとは受け入れること。一体になること。ゼロになること。

 

〇抜けとは開いて丸く“すれ違う”こと。

 

〇返しとは開いて丸く“返す”こと。

 

 →抜けと返しで技となる。

 

 

 

「剣に剣なし、体をもって剣となす。体に体なし、神をもって体となす。

 

螢(けい)然を以て円く、輝然を以て明らかなり。待たず慮らず、思わず止まらず。

 

板上に丸を転がすが如く、水中の瓢(ひさご)を圧するが如し。」

 

      参考「円和の合気道」27ページ、鹿島神流極意

 

相手を見て判断して自分の対応を決定し、その目標に向かって行動しようとするということは、瞬時も停止することなく変化しつつ流れてやまない自然の様相を時や位置をある一時点に停止させて、それを見た後ですなわち未来で起こす行動によって対処しようということ、即ち過去に未来を一致させようとしていることであり、不可能な対応なのです。

 

変化には変化で対応する以外に道はなく、お互いの変化の中のどこかで巡り合う一致点を見出すしかないのでしょう。

 

参考「円の合気 習得のキーワード」182ページ

 

 

陰陽一体(二心)、不用意の用意、気の送り、気の内

 

陰陽一体 、、、腰回りは陰陽一体で現れる。

 

陰陽、上下、左右、前後、外内、強弱、動静、体心、思考感情、感情感覚、感覚思考、前傾後傾、

 

上半身下半身、躁鬱、内外、遠心求心、光影、攻守、有無、呼吸、+-、緩急、善悪、

 

満ち引き、縦横、火水、日月、柔硬、、左脳右脳、骨肉、男女、開閉、、

 

自己修正する、、、相手を操作しない。

 

相手と対すると、むろん勝とうと欲するのであるが、その前に思わず、我が身を守ろうとする。相手の行動に先駆けて攻撃しよう、相手の攻撃を防いで、払って、避けてから攻撃をしようとしてしまうものである。大先生の訓えにある”陰り”が出てしまう。”臆し心”が先行する。この”二心”が問題なのである。これはやはり、対立や執れの結果である。

 

気の理を体得する(技に重点を置くのではなく)

 

気の孕み(心の内にある意、思い、、、つまり意識のこと)

 

機、その孕んだ気が地上の姿として現れたのが“機”、それによって行動する。

 

気の内、伸びよう、進展しようとする含みのある気をいう言葉。(合わさずして気の内で勝つ)

 

「来たるを迎え、去るは送る、対すれば相和す。五・五の十、一・九の十、二・八の十。大は方処を絶し、細は微塵に入る。活殺自在」(鬼一法眼)

 

「手をただ取らせただけでは、相手と結ぶことはできない。結ぶためには、次のようなことをしなければならない: 腰腹と結んだ手を、腰腹で上げるようにして手を取らせる(手で操作しない)。 相手が手を掴んだら、相手の手がつっぱるまで、腰を操作して、手を相手の中心に進める。このときの息は呼気。 ここで相手の力の強さや質を測定し(感じ)、即座に、十になるためには幾つの力を出せばよいかを判断する。 十になったところで、吸気に変える。そこで、相手と結んだと実感できるし、引力が働き、その引力で相手の手をくっつけてしまえるはずである。 力を強く出し過ぎたりして、十以上になっても駄目だし、力が弱過ぎて、十以下でも結ぶことはできない。もし相手とくっつくことが出来なければ、こちらの力の過不足であり、対応が悪くて十にならなかったということになるのだろう。」
                  (佐々木合気道研究所ホームページより)

 

惣身(惣見)


平井稔先生は槍遣いの中でこの言葉を抽出した。

 

物と心が一つになったものを言う。

 

相手と相対した時、自らの身体と心が一体となり、相手と自分が一体となった無心の

 

状態でなされた技を惣身の技という。

 

自ら無心となり、心身の不二一体、彼我一体となったところで行われる技の出る境地。

 

杖(物)と無形(心)が不二一体の境地から生まれる。

 

 

 

つまりは、自分とそれ以外のものとの区別がつかない状態、心理状態。

 

そしてそれを観ている自分。

 

 

 

一体感、、、何と?、、相手と、得物、周りの空間、世界、宇宙、、、

 

     全体を感じる、リラックスすることに集中する。

 

    ⇔体性感覚 

 

    ⇔自分の中の心と体(自己一致)、思考と感情、思考と身体、感情と身体、

 

     思考と感情と身体、それらを見ていく。自分とは誰?

 

    ⇔変性意識、瞑想、

 

    ⇔無我とは、、自分を観る自分の行為そのものをいう。

 

    ⇔仮想空間(vr)白井亨「自分の剣先から輪がでる」

 

    ⇔右脳と左脳、ジルボルト・テイラーの話

 

    ⇔ニュートラル

 

「脳の中の身体地図」

 

・ペリパーソナル・スペース(身体近接空間)

 

・脳はこの肉体の枠をこえた空間を忠実なマッピング

 

  車を運転するとき車をも自分の一部と感じる、高さ制限ギリギリのところをくぐる時

 

  頭をちょいとかがめてしますほど。→車を剣に変える。

 

全体を感じるために、中心という一部を感じる。

 

中心を感じる精度をあげることで、周りとのバランスと一体感をより感じる。

 

無元塾ではそれを惣身(惣見)という。

 

テクニックとしては、写し目を使う。写し目をトリガーに使う。

 

良い姿勢と悪い姿勢

 

実で相手の虚を攻める(動的)ことで、結果技になっていること。

 

実で実をせめる相手の身体の動きを見極めて対応する、つまり見て分別判断して実体(実)を攻めるような技のことではない。

 

気と気の対応をする。意識に対して意識で働きかける。

 

無意識に対しても意識的に働きかけるようにする。

 

そのあとは“思わざる”がでることを祈るのみ。

 

接触していても離れていても、相手の心を乱して、体が崩れるように働きかける。

 

虚とは乱れ崩れた状態のこと。

 

どう崩すかは考えない。結果崩れたことに関して何らかの対応をする環境を作っていく。

 

その為にやるべきことは、自分を修正するしか方法はなく、

 

それを“思わざる”にやれるように稽古していく。

 

そして、それを普段の生活にそれを取り入れる。

 

 

軸が真っ直ぐだから游は生まれ、そして游があるから流転が生まれる。

 

軸の真が流転して定まらぬが故に、入身の真、即ち回る間合いによる腰回しの

 

霊妙なハタラキが発現するようにする。

 

 

つまり、相手の虚とは、こちら側の中心帰納し腰が回る状態による、いい姿勢の時に

 

おこる相手の心の乱れのことであり、体の崩れことである。

 

中心帰納入門講座

 

まず言葉の意味を習います。。

 

成田伝合気道の言葉は、背景にいろいろな情報が含まれるメタファー的要素が

 

大きいので、その言葉の裏に潜む質感を感じられるように、進めていきます。

 

 

そして想い方(考え方)を習います。
さらに仕組み(システム)を習います。

 

 

中心帰納の質感を感じ、腰回しの状態を確認して、稽古を続けていくことで、そのプロセスをじっくり見ていくようにします。

 

感覚として相手との一体感も感じ、合気なども感じるようにしていきます。

 

このようなことを頭で無理に“理解”しようとすると、思考が働き、別のものになっていくので、そこは慎重に質感を大切に、追っていくようにします。

 

とにかく、ひとえにひたすら、「中心帰納」の状態になることを、

腰が回ることを、そういう質感を求めていきます。

ここではよく出てくる言葉としての「中心帰納」は、他ではお目にかかれない、恐らく平井先生が開発したものです。

言葉で説明すると、往々にして、分析、分解的に説明してしまいがちですが、

 

成田先生の本では、とても多面的に、メタファー的に表現されています。

・自意識(私)を働かせない。=無の境地 =浮の境地 =あるがまま
・最小限の筋肉の働き
・立っていても、寝ていても、逆立ちをしていても、世の中森羅万象の抵抗の

 中で、ただ一人毅然としてる。
・あらゆる行動が自然に澱みなく、周囲360度に最高に和合してゼロとなった  

 状態から、即時最適に表れる姿。
・思わざるに円和、流転して、球転無窮の球理。
・相手を意識することは対立。相手を意志しないとは私を無くすこと。
・自らの天与のハタラキに絶対の信を置き真理に忠実ということ。
・自己修正
・技法ではなく、心法、理の表現でなければ自ら破綻する。言葉や文字のイメ

 ージに惑わされ、言葉のアソビを真実と思い違いしてはならない。
・相手を意識したら(出たら、発したら)、すぐに元の自分(中心)に戻るこ

 と、それが呼吸というもの。
・円和とは相対をゼロ化することであり、相手を相対的な対象として受取らな

 いで唯唯自分自身に素直に帰ること。
・自然最高の力、宇宙、自然の力としか言いようのないハタラキが発現する
・最終的にその人の人柄が自然にでて、いわゆるによっておもわざるに

 解決するものでなくてはならない。

 ・力や感情によって相手をねじ伏せようとするようなを現そうとする

 と、ただちに反発を生み、敗れてしまうことになる。

 

無意識から何かを引き出す(思わざるが出る)ための考え方、説明なのです。

 

そして、今度は意識的に無意識のエリアに刷り込む稽古をしていきます。

 

  姿勢-重力に垂直、シモク、半身、良い姿勢、悪い姿勢、、

 

  イメージ-球、回転、中心、中心軸、3軸、流転、浮き、游、

 

  意味付け-360度の方向性、陰陽、開き、出る入る(呼吸)返し、抜け、

 

  感覚-写し目、内部感覚、目を閉じる、聴覚、触覚、、

 

  思考-感情・自動思考・スーパーエゴ・自意識を観ていく。

 

型稽古や8つの体裁きや剣、杖、小太刀、円乱捕りの中にを組み合わせ、織り交ぜていく。

 

無意識→意識→無意識という流れで、セカンドネーチャー(第2の本能)を作り上げていく。

 

 

体裁きの稽古のプロセス(「円和の合気道」86p 本より抜粋)

 

1)身体的各部の動きを角度なども含めて正確に習得する。(肉体的、型)

 

2)身体を動かしている原動力を肉体的なものではなく、内なる球の回転(腰の回り)として感じ、それを手がかりとして、自らの意識によってその玉を動かす。(イメージ) 直接動かせる部分は動かさず、その内なる球転を動きの表現の原動力として間接的な動きを身につける稽古を積み重ねる。(観念運動の認識)しかし、①②のような稽古では新に体裁きが目指している球理の表現には全く到達できない。技法の世界から出ることはできない。(矛盾)

 

3)そこで終局的には、そうしようとはしないで、すなわち自らの意思、命令、判断等によることなく、内なる球転というものが、相対の中で思わざるに自然に対立(2元)が円和して一元化するように生ずる求心的な渦として生ずるのだというような心境(無感の感)を感得するのを目標として、心を練らなければならない。(止揚)

 

を説いときながら、さらにではのアンチデーゼとして内的な考え方までも重ねて力説しておきながら最後にはともに全面否定し、ではサラッと心のことを言って終わっています。

 

その矛盾を止揚に変える為に、とことん考えるということ。

 

思考を止めるために、考え抜くということ。(矛盾)

 

 

信じる力をつける。

 

何が信じられなくて、みな途中で投げ出すか?

 

ひとつはここの教え。もうひとつは自分自身。

 

ここの教えを信じられないということに関しては、教える立場の人に責任がある。自分を信じられないという人は、その理由を深堀していく。

 

突き詰めて自分に向き合わなくてはいけない。

 

身体能力や、センス以上に信じる能力が求められる。

 

 

自分に向き合うとは、自分1人で完結する作業ではない。

 

その作業の第1ステップは、まず、自分の全てを余すことなくオープンにしなければならない。

 

第2ステップは、それを最低でも2人以上の人との間で、その関係性の中でサラさなければならない。

 

第3ステップは、そしてこの関係性から起こる相手の自分に対する反応、評価、指摘、場合によっては、悪口に耳を閉ざさず、目を背けず観なければならない。

 

この3つのステップを経ることが、自分を受け入れることであり向き合うことなのだ。つまり、自分の無意識というのは鏡である他人を通して観るものなのです。

 

恐怖に対する3種類の反応(ポリヴェーガル理論の簡略説明)

 

状況にもよりますが、人間が命の危機にさらされるような恐怖にさらされた時、一般的に、初めにすることは、社会神経システムの対応です。例えば、暴漢に出合ったとします。まず相手をなだめたり、気分が和らげたりすることを試みます。これがうまくいかない時は交感神経系システムを発動させます。心身ともに頑健な場合、あるいは、自分が守る必要のある家族や友人がいる場合、暴漢と戦うこともあるかもしれません。あるいは、すきを見て一目散に逃げ出します。闘争/逃走反応と言われるパターンです。

 

そしてそれでも対応しきれず圧倒的な力に屈せざるを得なくなる時、もう一つの副交感系システムを発動させ、死への痛みを感じることがない様に体を硬直させ、鈍感にさせる生理反応を起こします。

 

危険(社会)関与への順応から、闘争‐逃走へ、さらに硬直へと、反応と変化がそれはその人の持っている神経システムへの負荷の度合やあり方によってその優先順位が変わります。そして多くの場合、3つのシステムを同時に稼働させながら状況に適応しいきます。

 

例えば、子犬同士がじゃれあって遊ぶ時、牙をむいてかんだり、引っかいたりしますが、 決してお互いを傷つけません。闘争/逃走状態(交感神経)をオンにしながらも、他者を気遣っています。目と目を見つめあったり、声を出し合ったりしながら、お互いを確認しあいながら遊びます。社会神経系と交感神経をともに開いてバランスを取りながらじゃれあいます。そして遊びながら、神経統御の訓練をします。 それは人間も同様です。 ところが、現代のゲーム機器、パソコン、携帯等の普及の中で、目と目を見合い、体と体をふれあい、ぶつけあう機会の減少がいじめや引きこもりなどを促進していることにつながっている可能性もあります。

 

その効果的な神経統御訓練のシステムとしてここの合気道は最適であるということ。特に社会神経システムの訓練とは中心帰納の稽古そのものである。

 

(安心、落着き、つながり、愛、思いやり、ワンネス、オープンネス、幸福感)